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プロフィール

こんにちは院長の望月陽平です。

1979年(昭和54年)の5月4日、

仙台市内の荒町にあった佐藤産婦人科で生まれました。

 

僕が生まれた佐藤産婦人科が今は、おざわ先生が引き継がれて「おざわ女性総合クリニック」になっていますが、

私の息子、娘もここでお世話になりました。

今住んでいるのは北仙台なので少し離れていますが、こちらに通わせていただきました。

うちの母親は東北大学病院で臨床検査技師をしていたのですが、そこで、おざわ先生の息子さんともお仕事させていただいていて、親子三代のご縁を感じています。

生まれも育ちも荒町の荒町っ子です。

今話題の(一部だけ?)「アラマチマン」の撮影場所の毘沙門天は子供のころの遊び場で、

節分や夏祭りにはお菓子をもらった思い出の場所です。

この動画にでてくる「及川酒店」さんは、親父が好きだった「瓶入りコーラ」を買いに行った思い出のお店です。

小さな居酒屋営んでいた父は、平日は家にいなかったので、日曜日にナイターを観るときはず~と横にくっついていました。

保育園のころには、ジャイアンツの選手の名前、打順、打率、ホームランの数を暗記して父にアピールしてたことを覚えています。

幼いころ、父が大好きでした。

父の機嫌のいい時に、バイク(ホンダのスーパーカブ)に二人乗りして出かける時間は輝いていました。

もう時効だとおもいますが、

カブに乗せてくれる時に、親父の足の間に座らせてもらってハンドルを握って運転してる気分を味あわせてもらいました。

この時の、顔に風を浴びて髪の毛を靡かせる快感は今でも覚えてます!

そんな父ですが、商売は下手だったみたいで母は苦労したようです。

母は、父の居酒屋の赤字を助けながら、僕らを大きくするために大学病院で働いていました。

それで、僕は東北大学の中にあった「ことりの家保育園」に通いました。

小学校は荒町小学校です。

通学路が荒町商店街で、荒町では有名な幸洋堂(こうようどう)さんの前をとおるのですが、わんぱくだった僕らは、横断歩道で遊んで幸洋堂の親父さんに「あぶない!」って叱られたりしていました。

2017年で閉めちゃったんですよね、「幸洋堂」。

この前、久しぶりに前を通ったら空き地になってました・・・

わんぱくの度が過ぎて、死にかけたこともありました。

小学2年生のとき、ともだちと「どっちが根性あるか勝負しよう」といって、

校庭にあった、ぶら下がりシーソーの上にすわって、反対側を友達たちに押し下げてもらう遊びをしたんです。

みんなが「陽平君あぶないよ」って注意してくれてたのですが、友達に勝ちたい一心で「もっと上げて」って言ってたら、

コロッと落ちて、背中から地面にたたきつけられて、

気がついたら病院で寝ていました。

担任の吉田先生には、めちゃくちゃご心配をおかけしました。

この時の担任の先生が、変形性股関節症・膝関節症でうちに来られたときにはビックリしました。

うちの患者さんと同じコーラス・サークルで「膝が悪いなら、私が言ってるとこいいよ」って紹介してもらったみたいで。

「ご縁」

ってあるんだなー、って思いましたね。

「膝が痛くてじっとしててもダメ」ておっしゃってたのが、半年後にはスペインに旅行に行かれて9日間で約9万歩も歩いてこられたので、

あの時の罪滅ぼしは出来たかなと思います。

その後も、

「わんぱくでもいいたくましく育ってほしい」

を地で行く感じで成長し、

中学、高校では、そのエネルギーをサッカーに注ぎました。

ぼくなりに必死でがんばってインターハイ予選の準々決勝に、キーパーのポジションで試合に出れることになりました。

父はスタンドに応援に来てくれて、僕の蹴ったボールがハーフウエイ・インを超えるのを見て、母に「高校生であれはたいしたもんだ」と説明してくれそうです。

が、この試合で負けて僕はレギュラーから外れました。

このころ、父は肝臓を悪くして入退院を繰り返していましたが、冬の大会にも応援に来てくれました。

応援にきて欲しい気持ちはありましたが、自分も試合に出れるかわからないし、外は冷えるし、この状況じゃ無理だろうな、、と試合当日は「んじゃ頑張ってくるから!」といって家をでました。

母には「陽平の最後の大会だし、間違って出るかもしれないから 笑い」とユーモアをまじえて、防寒着をモコモコに着こんで。

その試合には出られませんでしたが、父は「あいつも3年間がんばったな」と母に話していたようです。

父は私が高校を卒業した1998年の313日に、肝硬変でこの世を去りました。

入院中、ドクターから禁じられているのに「コーラ買ってこい」と言われて荒町の及川酒店さんまで瓶コーラを買いに行ったのが、最後の思い出です。

高校卒業後は、電気関係の仕事についたのですが、正直あまりやりがいを感じることが出来ず、辞めてしまいました。

その後は、なんとなく派遣の仕事をしていました。

天職に出会うキッカケは、22歳の時にスノーボードで腰の骨を折って手術を受けて、身体が思うように動かなくなったことです。

ボルトが入ってガチガチになりました。

退院後もしばらくコルセットをしていたので、 筋力は落ちて関節が固くなり、日常生活を送るのも大変でした。

そういった生活を一日でも早く改善するために通ってた近所の病院で「柔道整復師」という資格をもった先生に出会い、その際大変お世話になりました。

手だけで体がどんどん良くなる事を実感した私は、 柔道整復師になるための専門学校に行くことを決意。

3年間の専門学校生活を終えて 福島の整骨院で4年間お世話になり、最後は院長をまかせてもらいました。

その後、

仙台に戻って市内の整骨院で2年間修業。

2013年107日、今の場所で「もちづき整骨院」を開きました。

おかげさまで患者さまにも恵まれ、今日まで来ることが出来ました。

この直後、腰~足のシビレで歩けなくなったのは人生最大の危機でした。

危機でしたが、

あれで

  • 患者さんの「痛み」を自分ごととして捉える事ができえるようになった。
  • ほんとうの意味での「根本治癒」に行き着いた

ので、今はあの痛みに感謝しています。

長男につづき長女も生まれ

お兄ちゃんになった長男は、一緒に父のお墓を掃除してくれるようになりました。

娘は、「パパ」と言ってくれるようになって癒しと元気をくれます。

目の中に入れても痛くありません。

でも、子育ってって大変ですね。

奥さんを観てると、本当にそう思います。

僕もこうやって育ててもらったんだなと思うと、親に対する気持ちも変わってきますね。

父が亡くなってからも、がんばって柔道整復師の学校に行かせてくれた母には感謝しかありません。

なのにこれから母に恩返しをしなければと思っていた矢先、母が膠原病(こうげんびょう)と結核を併発して寝込んでしまいました。

もともと膠原病は血液中の水分が出てしまう病気で浮腫みやすいのに、結核の薬も浮腫みをおこすため母の右ふくらはぎはパンパンになりました。

左足の1.5倍はありますよね?

寝たきりなので、太ももはガリガリに痩せてしまって皮膚がたるんでいる・・・

腎臓の働きが悪くなってオシッコも出にくい。

浮腫みで皮膚が張って痛みに敏感になっている。

すこし触れるだけで「痛いっ」という母。

いつまでもタフな母ちゃんのイメージが崩れ、

つらいだろうなという思いと、

母が老いていくさみしさで泣きそうになりました。

ここから母を自分の手で救いたくて色々なことを勉強しました。

 

  • 免疫機能を高める食事
  • 血液やリンパの流れを改善する方法
  • 痛みを与えず固くなった筋肉をほぐす方法
  • 負荷が少なく寝たきり状態でもできる体幹トレーニング
  • 東洋医学(経絡・ツボ・推拿)

人生で、ここまで勉強したのは初めてでした。

 

母親が、リンパの流れや栄養、免疫などの全体最適を考えるホリスティックなアプローチへの理解を深めるキッカケをくれたのだと感謝しています。

浮腫みの左右差が無くなるくらい、全体的なアプローチは効果的です。

京都の神社でいただいてきた「足腰のお守り」を渡したら、寝たきりだったのに、荒町から仙台駅前まで散歩にいくようになりました。

母親の膠原病に向き合ってホリスティックなアプローチで患者さんと二人三脚で歩くようになると、これまでとは違う感覚が出てきました。

先生と患者さんというより「家族」という思いになりました。

以前は「先生」「患者さん」という感覚でしたが、「家族を救いたい」「役に立ちたい」という感覚になりました。

母が、施術者としてあるべき姿に導いてくれたのだと思います。

家族だから、

「友達とのウォーキングも楽しんでほしい」

「海外旅行にもバンバン行ってほしい」

「ディズニーランドに行ってほしい」

「ツーサイズ細いスキニーでおしゃれを楽しんでほしい」

「好きなバスケットを思う存分楽しんでほしい」

「かわいい靴を買う楽しみを味わってほしい」

「長く続けてきた仕事を辞めないでほしい」

そのために僕にできる最善を追求していきます。